こんにちは。高垣です。今日は水山蹇について書いていこうと思います。
同じことを何度も考えていると、周囲からは堂々巡りに見えることがあります。
「また同じことを考えている」
「いつまで悩んでいるのか」
「答えが出ないなら、いったん考えるのをやめればいい」
そう見えることもあるでしょう。
たしかに、同じ問いのまわりをただ回り続けているだけなら、消耗することがあります。
しかし、同じ問いに戻っているからといって、考えている位置までまったく同じとは限りません。
昨日と同じ問いでも、今日の自分には昨日とは違う経験があります。
少し違う知識があるかもしれません。
体力や時間の余裕も違います。
同じところを回っているように見えても、実際には螺旋階段のように、少しずつ高さが変わっていることがあります。
だから私は、一つ問いを置いてみたいと思います。
答えが出ない時間は、本当に何も進んでいない時間なのでしょうか。
水山蹇は、一般には障害や困難、前に進みにくい状態を示す卦として説明されます。
しかし今回私は、この「進めない」という状態を、思考の時間から考えてみたいと思います。
答えが出ない時間は停滞とは限らない。問いに向き合っているなら、それは思考が熟成している時間かもしれません。
水山蹇とは|進めない時に無理に進まない
水山蹇は、上卦が坎の水、下卦が艮の山から成る卦です。
前には険しさがあり、簡単には進めない。
そのため蹇は、「困難」「障害」「進みにくい」といった意味で読まれます。
ただし、進みにくいからといって、すぐに「失敗」と考える必要はありません。
前に障害があるのに、速度だけを上げればよいとは限らないからです。
進めないときには、進めない理由を見る。
道が整っていないのか。
自分に力が足りないのか。
時間が必要なのか。
別の条件がまだ揃っていないのか。
思考も同じです。
答えが出ないときに、
「もっと考えなければ」
「今日中に答えを出さなければ」
と無理に進もうとしても、深まらないことがあります。
答えが出ないのではなく、答えを考えられる条件がまだ整っていないことがある。
蹇とは、そういうときに無理に前へ押し続けないという判断でもあります。
同じことを考え続けるのは堂々巡りなのか
同じ問いを何度も考えることは、一見すると効率が悪く見えます。
昨日も考えた。
今日も考えた。
それでも答えは出ない。
ならば、「何も進んでいない」と思いやすい。
しかし、思考は必ずしも一直線に進むものではありません。
ある時には同じ問いを感情から考える。
別の日には知識から考える。
さらに時間が経てば、自分の経験そのものが変わっています。
だから、問いそのものは同じでも、その問いを見る場所は変わることがあります。
螺旋階段を上るとき、横から見れば同じ場所を何度も回っているように見えます。
けれど、少しずつ高さは変わっています。
思考にも、そういう反復があるのではないでしょうか。
もちろん、すべての反復が有益だと言うつもりはありません。
同じところで消耗しているだけのこともあります。
ただ、
反復していることと、無意味であることは同じではありません。
ここを分けて考える必要があります。
考えること自体が報酬になる人もいる
「答えが出ないなら、考えるのをやめた方が楽ではないか」
そう考える人もいるでしょう。
しかし、人によっては答えだけが思考の報酬ではありません。
考えることそのものが楽しい人もいます。
問いを持つ。
仮説を作る。
違う可能性を考える。
分からないものを追う。
その過程そのものに喜びを感じる。
私にとっても、答えが出ることだけが思考の価値ではありません。
考えている時間そのものに面白さがあります。
だから、
「答えが出ないなら、考える意味がない」
とは思いません。
結果が報酬ではなく、考えること自体が報酬になる人もいます。
これは、ただの自己満足なのではないかという反論もあります。
しかし、その思考が文章や研究、仕事、判断、創作など実際の活動ともつながっているなら、楽しさと価値は対立しません。
「苦しいから本気」
「楽しいなら努力ではない」
という決まりもありません。
考えることが報酬になる人にとって、自己満足と成果は必ずしも対立しないのです。
楽しい思考でも疲れる
ただし、ここには注意があります。
考えることが好きだからといって、無限に考え続けられるわけではありません。
ランニングが好きな人でも、楽しいからといって何時間でも走り続けられるわけではありません。
身体には限界があります。
思考も同じです。
考えることが楽しい。
もっと知りたい。
もう少し先まで考えたい。
そう思っていても、頭や身体が疲れることはあります。
だから重要なのは、
「思考が好きか嫌いか」
だけではありません。
自分の体力や集中力が、今どこまで持つのかを見ることです。
思考が楽しいことと、思考で疲れないことは別です。
好きだからこそ、休む必要が出てくることもあります。
思考を休ませるとは「何も考えない」ことではない
では、思考を休ませるとは何でしょうか。
私は、「何も考えないようにすること」ではないと思っています。
そもそも、
「何も考えないようにしよう」
と考えている時点で、すでに一つの思考が始まっています。
必要なのは、頭を完全に空っぽにすることではありません。
いま考えている問いから、一度離れることです。
眠る。
散歩する。
別の仕事をする。
違う本を読む。
まったく別のテーマへ注意を向ける。
そうすると、問いそのものを捨てなくても、一時的に距離を置くことができます。
ここは水山蹇とよくつながります。
進めない。
だから問いを壊すのではない。
進めない。
だから、無理にそこへ体力を注ぎ続けるのをやめる。
思考を休ませるとは、頭を空っぽにすることではない。いま考えていることから一度離れることです。
中断と放棄は違います。
答えが出ないのは、条件が整っていないだけかもしれない
同じ人が同じ問いを考えていても、いつも同じ深さまで考えられるとは限りません。
ある日は、驚くほど考えが進む。
別の日は、何時間考えても何もつかめない。
その違いには、自分の意思以外のものも関わっています。
体力。
時間。
余裕。
経験。
環境。
その時の状態。
思考が深まるためには、そうした条件の噛み合わせがあります。
だから、
「努力して考え続ければ、必ず答えが出る」
とは限りません。
逆に、答えが出ないから能力がないとも限りません。
思考の深まりには、自分だけではコントロールできない条件があります。
ここを無視して答えを急ぐと、本来まだまとまっていないものへ、無理に結論を貼り付けてしまうことがあります。
進めないなら、今は進める条件が整っていない可能性も見る。
それが蹇的な判断だと思います。
問いは、いったん離れた後に戻ってくる
一度考えるのをやめた問いへ、必ず自分から戻らなければならないわけでもありません。
「今日からあの問題を再開しよう」
と予定を立てなくても、問いの方から戻ってくることがあります。
少し体力が戻る。
時間ができる。
別の経験をする。
何かの記事を読む。
誰かの言葉を聞く。
すると、以前考えていたことが急に気になり始めます。
「あれは、もしかするとこういうことだったのではないか」
と、もう一度考えたくなる。
私は、
問いは、こちらが追い続けるだけのものではない。いったん離れたあと、再びこちらを問うことがある
と思っています。
中断しているあいだにも、自分は生きています。
経験が増えます。
知識も変わります。
だから戻ってきたときには、以前と同じ問いでも、以前と同じ自分ではありません。
答えが出ない時間は思考の熟成かもしれない
ここが今回、一番考えたいところです。
答えが出ない。
だから失敗。
答えが出ない。
だから停滞。
そう簡単に決めなくてもよいのではないでしょうか。
その場では何もまとまらなかったものが、数日後にまとまることがあります。
別の経験によって、突然つながることがあります。
以前は理解できなかった考えが、時間を置くことで分かることもあります。
答えを直接考えていない時間まで含めて、思考が少しずつ形になっていくことがあります。
だから私は、
答えが出ない時間は、思考が熟成している時間かもしれない
と考えています。
もちろん、時間を置けば必ず正しい答えが生まれるわけではありません。
待てば何でも解決するわけでもありません。
ただ、答えがまだ出ていないという理由だけで、その時間をすべて「無駄」や「停滞」と評価する必要もありません。
私たちは少し、答えを急ぎすぎることがあります。
早く結論を出す。
早く成果を出す。
早く次へ行く。
しかし、考えることには、その速度に合わない問いもあります。
熟成と逃避は何が違うのか
ここまで読むと、
「何年も答えが出ないなら、それは熟成ではなく逃げているだけではないか」
という反論もあるでしょう。
これは重要な問いです。
私は、熟成と逃避を「答えが出たかどうか」だけでは区別できないと思っています。
何年考えても答えが出ないことはあります。
その間に別の人が先に答えを出すこともあります。
競争という意味では負けるかもしれません。
しかし、
他人より早く答えを出せたか。
自分がその問いに誠実に向き合ったか。
これは別の問題です。
思考の速度と、問いへの誠実さは別の軸です。
では熟成と逃避をどこで見るのか。
私は、
問いを捨てているのか。
それとも、必要なときに戻りながら向き合い続けているのか。
そこを見るべきだと思います。
熟成と逃避の違いは、答えが出たかどうかではない。問いに向き合い続けているかどうかで決まります。
一度離れることは、必ずしも逃避ではありません。
戻れる形で問いを持っているなら、それも思考の途中です。
水山蹇が教える|進めない時間も思考の一部
水山蹇を「進めないから悪い」とだけ読んでしまうと、進めない時間そのものを否定することになります。
しかし現実には、進めないからこそ見えることがあります。
今は体力がない。
今は時間が足りない。
今の知識では考え切れない。
もう少し経験が必要かもしれない。
そう気づくことも、一つの進展です。
蹇では、無理に障害へ突っ込むことだけが行動ではありません。
位置を見直す。
条件を待つ。
別の道を探す。
助けを借りる。
一度立ち止まる。
そうした判断も含まれます。
思考でも同じです。
問いを捨てなくてよい。
考えることを否定しなくてよい。
ただ、
今は何もつかめないなら、一度離れる。
そして条件が整ったとき、また戻る。
蹇とは、進めない時に無理に進むことをやめ、次に進める条件が整うまで問いを持ったまま待つことでもあります。
答えが出ていないからといって、何も起きていないとは限りません。
まとめ|答えを急がなくても、問いは消えない
同じことを何度も考えていると、堂々巡りに見えることがあります。
しかし、同じ問いへ戻っていても、考える位置は変わっていることがあります。
考えること自体が楽しい人もいます。
その一方で、楽しい思考でも疲れます。
だから一度離れることも必要です。
一度離れたからといって、問いを捨てたことにはなりません。
体力が戻り、時間ができ、経験が増えれば、問いはまた戻ってくることがあります。
そして、その時には以前とは違う位置から考えられるかもしれません。
水山蹇は、進めないことをただ失敗と見る卦ではありません。
進めないなら、なぜ進めないのかを見る。
条件が整っていないなら、無理に答えを取りに行かない。
問いを持ったまま、一度退く。
そういう時間も思考の一部です。
答えが出ないことよりも、答えを急ぎすぎて問いを壊してしまうことの方が怖いのかもしれません。
すぐ結論を出せなくても構いません。
思考の速度と、問いへの誠実さは同じではありません。
答えが出ない時間は停滞とは限らない。問いに向き合っているなら、それは思考が熟成している時間かもしれません。
あなたが今、答えを急ぎすぎている問いはありませんか。
そして、その中に、少し時間を置いてもよい問いはありませんか。

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