天沢履とは|「それが社会人だ」に違和感がある理由

こんにちは。高垣です。今日は天沢履について書いていこうと思います。

天沢履という卦を考えるとき、私は「社会の中でどう振る舞うか」という問題を強く意識します。

履は、文字どおり「履む」「歩く」という意味を持つ卦です。

社会の中には、自分以外の人がいます。

立場の違いがあります。

力関係があります。

ルールがあります。

こんにちは。高垣です。今日は天沢履について書いていこうと思います。

天沢履という卦を考えるとき、私は「社会の中でどう振る舞うか」という問題を強く意識します。

履は、文字どおり「履む」「歩く」という意味を持つ卦です。

社会の中には、自分以外の人がいます。

立場の違いがあります。

力関係があります。

ルールがあります。

その中を、相手との距離や自分の立場を見ながら歩いていく。

私は、天沢履にはそういう問題が含まれていると思っています。

そこで今回考えたいのが、「社会人らしさ」です。

よく聞くことがあります。

「社会人なんだから、それくらいは我慢しないと」

「普通の社会人なら、仕事を優先するでしょう」

「社会人なら、多少の無理はするものだ」

こういう言葉を聞くと、私は少し引っかかります。

社会の中で適切に振る舞うことと、会社の要求へ従うことは、本当に同じなのでしょうか。

私は違うと思っています。

天沢履を「社会の中でどう歩くか」という卦として考えるなら、会社への適応力と、人間としての成熟は分けて考える必要があります。

「社会人なんだから」という言葉は、なぜこんなに強いのか

たとえば、急な仕事を断ろうとしたとき。

休暇を取ろうとしたとき。

会社行事への参加をためらったとき。

そこで「社会人なんだから」と言われると、単なる仕事上の助言以上の重さを持つことがあります。

断れば、未熟なのではないか。

嫌だと感じる自分がおかしいのではないか。

会社へ合わせられない自分は、社会人として何か欠けているのではないか。

そんなふうに、仕事上の判断だったはずのものが、いつの間にか自分自身への評価へ広がっていくことがあります。

「社会人」という言葉は、本来かなり広い言葉です。

働いて生活している成人を指すこともあれば、学生ではなく職業生活を送っている人を意味することもあります。

ところが実際には、単なる属性を超えて、「こう振る舞うべきだ」という規範として使われることがあります。

社会人なら我慢する。

社会人なら空気を読む。

社会人なら仕事を優先する。

社会人なら多少の無理は受け入れる。

こうした言葉には、ときとして、

「そうしない人は、社会人として未熟である」

という評価まで含まれています。

ここが重要です。

単に「この職場では、こうしてほしい」という話なら、それは会社のルールや業務上の要請として説明できます。

しかし、「社会人なら当然だ」と言われると、会社の要求が社会全体の常識へ広がります。

さらに、それに従えない人は未熟だ、という人格評価まで入り込んできます。

だから「社会人なんだから」という言葉は強いのです。

会社の都合を、個人の成熟の問題へすり替える力を持つことがあるからです。

天沢履は「ただ従うこと」の卦なのか

ここで天沢履へ戻ります。

履という卦を、「礼儀を守る」「慎重に振る舞う」とだけ読むと、場合によっては「上の人に逆らわず、きちんと従いましょう」という話にも見えてしまいます。

しかし私は、それだけでは履の面白さを十分に捉えられないと思っています。

天沢履には、有名な「虎の尾を履む」という象があります。

危険なものの近くを歩く。

だから慎重さが必要になる。

しかし、重要なのは「怖いから何でも従う」ということではありません。

どこまで近づくのか。

どういう距離を取るのか。

どのように振る舞えば、相手も自分も壊さずに歩けるのか。

私は、こちらの方が履の核心に近いと思っています。

履とは、服従ではなく、関係の中で足元を見ながら歩くことです。

だから社会人らしさについて考えるときも、

「会社にどれだけ従えるか」

だけでは足りません。

自分の立場を知る。

相手の立場も見る。

守るべきルールを理解する。

しかし同時に、自分自身まで失わない。

そこまで考えて初めて、「社会の中でどう歩くか」という履の問題になります。

自分の立場を知り、必要以上に自分を大きく見せず、相手との関係の中でどう振る舞うかという問題は、地山謙とあわせて考えると、天沢履との違いも見えやすくなります。

会社に適応することと、成熟することは同じではない

もちろん、会社で働く以上、一定の適応は必要です。

決められた時間に仕事をする。

必要な連絡をする。

役割を果たす。

周囲と協力する。

仕事上のルールを守る。

組織には、複数の人が一緒に働くための仕組みが必要です。

ですから、会社へ適応すること自体を否定する必要はありません。

問題は、その先です。

会社のルールへよく適応できる。

急な要求にも応じられる。

長時間働ける。

不満を表に出さない。

上司の意向を理解して動ける。

こうした人は、会社から見れば働きやすい人かもしれません。

しかし、それは基本的には「その組織の中で役割を果たす能力」の評価です。

会社と個人の関係は、仕事という限定された範囲で成立しています。

会社が評価するのも、基本的にはその範囲での能力や適応です。

一方、人間としての成熟は仕事だけではありません。

家族との関係。

友人との関係。

弱い立場の人への態度。

自分自身への向き合い方。

他人をどのように扱うか。

もっと広い領域を含みます。

仕事は非常によくできても、他人を見下す人はいます。

会社の指示には忠実でも、自分より弱い立場の人へ冷酷な人もいます。

反対に、会社の文化には馴染みにくくても、他人の事情を考え、自分の責任を引き受け、相手を尊重できる人もいます。

だから、

会社にとって扱いやすい人であることを、成熟した人間の条件にしてはいけない。

会社が評価している範囲と、人間として成熟しているかどうかを考える範囲は、そもそも同じではないのです。

「会社にとって都合がいい人」が「立派な社会人」になるとき

会社には会社の目的があります。

利益を出す。

仕事を進める。

組織を安定して動かす。

そのために、会社側から見て都合のよい行動があります。

急な仕事へ対応してくれる。

休まず働いてくれる。

会社の方針へ反発しない。

人手が足りないときに無理を引き受けてくれる。

それらは会社にとって助かるでしょう。

しかし、会社にとって助かる人と、立派な人間は同じではありません。

ここを混同すると、


会社への適応
↓
職場で扱いやすい
↓
立派な社会人
↓
成熟した人間

という連結が生まれます。

すると、会社に合わせられない人は、単に職場との相性が悪いのではなく、「人として未熟なのだ」と感じるようになります。

ここで問題なのは、会社への適応そのものではありません。

会社へ適応できることが、人間として成熟している証明へ変わってしまうことです。

社会性と会社への服従を混同しない

ここで、

「でも社会性がない人を、成熟した人とは言えないのではないか」

という反論があるでしょう。

社会性は大切です。

自分の都合だけを押し通さない。

他人と協力する。

約束を守る。

必要な責任を引き受ける。

相手の立場を想像する。

対話する。

こうした力は、人と一緒に生きていくうえで重要です。

しかし、社会性と会社への服従は同じではありません。

社会性とは、単に会社から言われたことへ従う力ではありません。

自分とは違う人を理解しようとすること。

自分と他人の利害を調整すること。

ルールだけでなく、相手の事情も見ること。

必要なら意見の違いを言葉にすること。

こうしたことも社会性です。

私たちは会社だけで生きているわけではありません。

家族もいます。

友人もいます。

地域との関係もあります。

会社の外にも無数の人間関係があります。

会社へ従順であることと、社会の中で他人と共に生きる力は、分けて考える必要があります。

天沢履として見る「社会人らしさ」

天沢履に戻って考えると、私は「社会人らしさ」を、単純な服従ではなく、もっと広く捉えたいと思います。

社会にはルールがあります。

立場があります。

相手との距離があります。

無視すれば摩擦が起こります。

だから、何も考えず自由に振る舞えばよいわけではありません。

しかし、反対に、相手に合わせることだけが正解でもありません。

大切なのは、

自分がどこに立っているか。

相手がどこに立っているか。

どこまで近づくのか。

どこから先は踏み込まないのか。

どのように歩けば、関係を壊さず、自分自身も失わずに済むのか。

それを考えることだと思います。

どこまで近づき、どこから先は距離を取るのかという問題は、天山遯ともつながります。天沢履が関係の中をどう歩くかを考える卦なら、天山遯は必要なときにどのように距離を取るかを考える卦として読むことができます。

社会の中で正しく振る舞うことと、組織にとって都合よく振る舞うことは同じではありません。

私は、この違いを考えるところに、天沢履の面白さがあると思っています。

まとめ|天沢履は「どう従うか」ではなく「どう歩くか」を問う

「社会人なんだから」という言葉には、ときとして、会社の要求を社会全体の常識へ広げ、さらに人間としての成熟の問題へ変えてしまう力があります。

しかし、会社への適応と人間的成熟は別のものです。

組織で働く以上、一定の適応は必要です。

社会性も必要です。

けれど、会社にとって扱いやすいことが、そのまま成熟した人間である証明になるわけではありません。

私は、天沢履を「ただ従うこと」を教える卦とは考えていません。

相手との関係を見ながら、自分の足元を確かめ、一歩ずつ歩く卦だと考えます。

だから、社会人らしさについても、

「会社にどこまで従えるか」

ではなく、

「社会の中で、自分も他人も失わずにどう歩くか」

という問いに置き換えてみたいのです。

会社への適応力と、人間としての成熟は同じではありません。

では、会社への適応を成熟の基準にしないとすれば、人として成熟しているとは何なのでしょうか。

このテーマを考えていくと、次に「自分と他人をどう扱うか」という問題へ進んでいきます。

今回はここでいったん区切ります。

次回は、人間的成熟の一つの基準として考えている「自他への配慮」と「自他への愛」について、別の卦との関係も含めて考えてみたいと思います。

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