水沢節とは|働きすぎが「普通」になったとき、どこに境界を引くのか

こんにちは。高垣です。今日は水沢節について書いていこうと思います。

少し前に、ある映画を観ていて、働き方について妙に引っかかる場面がありました。

作中では、仕事に追われている人物が21時頃に帰宅する生活が描かれていました。

私はそれを見て、一瞬、「21時なら確かに遅いけれど、そこまで異常なのだろうか」と感じました。

しかし、その直後に別の疑問が湧きました。

これが毎日だとしたら、仕事には行けても、人生そのものはきちんと回るのでしょうか。

朝から働き、21時頃に帰宅すれば、食事や入浴を済ませるだけで一日が終わる人もいるでしょう。家族が朝起きて夜眠る生活をしているなら、平日に顔を合わせてゆっくり話す時間もほとんど残りません。

会社員としては生活が成立していても、家族との時間、自分の時間、休息、趣味、人間関係といった人生の他の部分は、少しずつ仕事に押し出されていきます。

そして、私が本当に怖いと思ったのは、その生活そのものだけではありませんでした。

なぜ私は、21時に帰宅する生活を「そこまで異常ではない」と感じたのでしょうか。

人生が仕事によって削られているにもかかわらず、それを「社会人なら普通だ」「働くとはこういうものだ」と受け入れるようになれば、削られていること自体が見えなくなります。

私はそこに、ある種の自己洗脳のような怖さを感じました。

問題は、21時という数字そのものではありません。

自分の中にある「普通」の基準は、いったいどこで作られたのか。

働きすぎより怖いのは、働きすぎを普通だと思う基準なのかもしれません。

易経の水沢節には、「節」という文字があります。

節約、節制、制限。我慢することを連想するかもしれません。

しかし、今回の働き方という問題から水沢節を考えると、別の姿が見えてきます。

節とは、自分を苦しめるために制限することではありません。

仕事を含めた人生の大切なものが互いを壊さず共存できるように、「ここまで」と境界を引くことでもあるのです。

21時帰宅を見て、なぜ私は自分の感覚に驚いたのか

働きすぎかどうかを考えるとき、私たちは数字を基準にしがちです。

一日に何時間働いたのか。残業は何時間だったのか。何時に会社を出たのか。

もちろん、それらは大切な指標です。

しかし、同じ21時帰宅でも、「かなり遅い」と感じる人もいれば、「それくらい普通だ」と感じる人もいるでしょう。

では、その違いはどこから生まれるのでしょうか。

周囲が毎日定時で帰る環境なら、21時はかなり遅く感じるかもしれません。

反対に、周囲がもっと遅い時間まで働いている環境なら、21時でも「今日は早かった」と感じることがあります。

つまり、「普通」は絶対的なものではありません。

職場の文化、周囲の働き方、社会で見聞きしてきたもの、過去の経験。

そうしたものによって、自分の中の基準は少しずつ作られていきます。

だから私が映画を観て気になったのは、「21時は遅いのか」という問題だけではありませんでした。

なぜ私は、その生活をそこまで異常だと思わなかったのか。

もし朝8時や9時から働き始め、21時頃まで仕事をしているなら、かなり長い時間を仕事に使っていることになります。

それが毎日でも「普通」と感じるなら、私たちはいつの間にか、仕事に最適化された生活そのものを人生の標準形として受け入れているのかもしれません。

私はそこに、自己洗脳に近い怖さを感じます。

働きすぎより怖いのは、働きすぎそのものではなく、それを普通だと思う基準なのかもしれません。

働きすぎは、いつから「普通」になるのか

仕事が忙しい時期そのものは、誰にでもあるでしょう。

一週間だけ忙しい。繁忙期だから残業が増える。大切な仕事を完成させるために、一時的に仕事へ集中する。

それだけで、その働き方が悪いとは言えません。

問題になるのは、一時的だった状態が日常になり、さらにその日常が自分の「普通」へ変わっていくことです。

帰宅して、食事をして、風呂に入ったら一日が終わる。

家族や恋人とゆっくり話す時間がない。

趣味は休日まで先送りする。

休日になっても、何かを楽しむというより、次の仕事へ向けて疲労を回復させるだけで終わる。

こうした生活が続いても、周囲がみんな同じように働いていれば、「社会人ならこんなものだ」と思うかもしれません。

しかし、そのとき失われているのは単なる自由時間だけではありません。

家族との時間。愛情を育てる時間。人間関係。健康を整える時間。自分が何をしたいのかを考える時間。

人生を構成する他の大切な部分が、少しずつ仕事へ置き換わっていきます。

怖いのは、何かを失ったことだけではありません。

失ったこと自体に気づきにくくなることです。

仕事が回っている。給料も出ている。会社員としての生活も成立している。

だから人生全体も回っているように見える。

しかし、本当にそうでしょうか。

仕事に人生を奪われるのは、働く時間が増えたときだけではありません。

その状態を当然だと思い始めたとき、仕事以外の人生が見えなくなっていくことがあります。

長時間働けば、それだけ人生は豊かになるのか

ここで、私はもう一つ疑問を持ちます。

長い時間を仕事へ投入することには、それだけの価値があるという前提が、どこかにあるのではないでしょうか。

多くの人が朝から夜まで働く。教育を受け、能力のある人たちが長い時間を仕事へ使う。

それだけの人生の時間を投入するなら、本来は個人も社会も豊かになっていくと考えたくなります。

ところが、日本では長い経済停滞の時代を「失われた30年」と呼んできました。

もちろん、長時間労働がその原因だったと言いたいわけではありません。

経済停滞には、多くの要因があります。

私が引っかかるのは、これほど多くの人が人生の大きな時間を仕事へ投入してきたにもかかわらず、その社会自身が結果としてその時代を「失われた」と呼んでいる、その落差です。

では、私たちは何のためにそこまで働いてきたのでしょうか。

長く働くこと自体が、豊かさを保証するわけではありません。

仕事へ多くの時間を使うことと、豊かな人生を送ることは、同じではないのです。

水沢節とは|人生を守るために「限度」を作る卦

水沢節は、上卦が坎、下卦が兌から成る卦です。

「節」という字を見ると、節約、節制、我慢などを連想する人も多いでしょう。

もちろん、節には制限するという意味があります。

しかし、水沢節を単純に「我慢する卦」と考えてしまうと、その意味を狭くしてしまいます。

今回のテーマに引き寄せて考えるなら、重要なのは「区切る」ということです。

どこまでは入れてよいのか。どこから先には入れないのか。どこまでなら無理なく続けられるのか。何を超えたら、人生全体のどこかに無理が出始めるのか。

人生には、仕事だけがあるわけではありません。

家族があります。愛があります。お金があります。人間関係があります。健康があります。そして仕事も、その中の大切な一つです。

どれを重く置くかは、人によって違っていいと思います。

仕事を大きく選ぶ人もいるでしょう。愛を何より大切だと考える人もいるでしょう。お金や健康を最優先にする人もいます。

大切なのは、すべてを均等に配分することではありません。

一つの価値が、他の大切なものを壊すところまで広がらないことです。

だから私は、水沢節の「節」を、単なる制限ではなく境界だと考えます。

節とは、何かを減らすことではありません。一つの価値が人生全体を破壊しないために、「ここから先には入れない」と線を引くことなのです。

仕事に境界がなくなると、何が失われるのか

仕事そのものが悪いわけではありません。

仕事によって能力を伸ばすこともできます。人と出会うこともできます。収入を得ることもできます。

仕事そのものが人生の大きな喜びになる人もいるでしょう。

だから、仕事もまた豊かな人生を構成する大切な一部です。

しかし、一部であるはずの仕事を人生の最上位に置き、他のすべてを従属させ始めると、仕事は豊かさを作るものから、豊かさを削るものへ変わることがあります。

今日できなかった仕事を家で少しやる。休日にメールを一度だけ確認する。寝る前に翌日の仕事について考える。

一つ一つを見れば、それほど大きなことではありません。

しかし境界がなくなれば、仕事は会社にいる時間だけのものではなくなります。

身体は家に帰っていても、頭の中では仕事が続いている。

すると削られるのは、単なる自由時間だけではありません。

睡眠。身体を回復させる時間。家族や恋人と話す時間。友人と過ごす時間。趣味。何もしない時間。そして、自分がこれから何をしたいのかを考える時間。

私たちは生きるために仕事をするのであって、仕事をするために生きるのではありません。

仕事は人生そのものではなく、人生を構成する一つの重要な要素です。

だからこそ、仕事が人生全体へ広がりすぎないように、境界が必要になります。

「21時まで働くのは悪い」という話ではない

ここは、はっきり分けて考える必要があります。

この記事は、「21時まで働いたら働きすぎだ」と決めるための記事ではありません。

仕事が好きで、長い時間を使いたい人もいるでしょう。

若いうちに集中的に能力を身につけたい時期もあります。

繁忙期で、一時的に長時間働かなければならないこともあります。

高い収入や将来の目標のために、本人が意識的に仕事へ多くの時間を投入することもあるでしょう。

本人が本当にそれを選び、家族、愛、人間関係、健康など、他の大切なものも壊れていないのであれば、何時間働くかはその人自身が決めればいいと思います。

水沢節の「節」は、全員へ同じ制限を課すことではありません。

見るべきなのは、数字だけではないからです。

その働き方を、自分自身で選んでいるでしょうか。

変えたいと思ったとき、変えられる余地があるでしょうか。

睡眠や回復は残っているでしょうか。

大切な人との関係は維持できているでしょうか。

仕事以外の自分は残っているでしょうか。

一時的に仕事へ全力を注ぐことと、それ以外の生き方ができなくなることは違います。

だから水沢節から問うべきなのは、「何時まで働けば正しいのか」ではありません。

自分はどこまでなら、人生の他の大切なものを壊さずに働けるのか。

そこに自分なりの「節」を作ることです。

残業が当たり前になったとき、自分の基準をどう取り戻すか

長い間、同じ環境にいると、その環境の基準が自分の基準になります。

だから、残業が当たり前になっている人に「働きすぎだから減らせばいい」と言うだけでは、あまり意味がない場合があります。

本人にとっては、それが普通だからです。

まず必要なのは、自分の生活を少し離れたところから見ることではないでしょうか。

この働き方を、私は本当に選んでいるだろうか。

変えたいと思ったとき、変えられるだろうか。

休日は生活するための時間になっているだろうか。

それとも、次に働くための回復だけで終わっているだろうか。

家族、愛、お金、人間関係、健康、仕事。

今の自分の人生では、それぞれがどのような場所を占めているでしょうか。

どれか一つが他を押しつぶしていないでしょうか。

この生活を、あと3年続けたいと思うでしょうか。

答えは人によって違って構いません。

仕事へ全力を注ぐ人生を、自分で選ぶことも一つの生き方です。

大切なのは、「周囲もやっているから普通だ」という理由だけで、自分の限度まで周囲に決めてもらわないことです。

自分の「普通」は、本当に自分が選んだ普通なのか。

そこを問い直すことが、水沢節の「節」を自分の生活へ取り戻す第一歩になるのだと思います。

水沢節が教えるのは「制限」ではなく「守るための境界」

制限という言葉には、不自由な印象があります。

好きなことを我慢する。やりたいことを諦める。自由に使えるものを減らす。

しかし、制限には反対の働きもあります。

何かに境界を作ることで、別の何かを守ることができます。

仕事をここまでと決めることで、睡眠を守る。

使うお金に限度を設けることで、将来の生活を守る。

人間関係でも、相手の要求を無制限に受け入れないことで、自分の生活を守る。

恋愛でも、好きだからといって相手の時間や領域へ際限なく入り込まないことで、二人の関係を守ることがあります。

このように考えると、水沢節は単なる「我慢の卦」ではありません。

何か一つが全体を飲み込まないように、それぞれのものへ適切な場所を与える卦として見ることができます。

豊かな人生とは、すべてを均等に持つことではありません。

人によって、大切にしたいものの比重は違います。

しかし、一つの価値が他の大切なものを破壊するところまで広がったとき、人生全体の豊かさは痩せていきます。

だから節が必要です。

節とは、自分を縛るための制限ではありません。自分が守りたいものを残すための境界です。

まとめ|あなたの仕事は、人生のどこまで入ってきてよいのか

ある映画を観ていて、私は21時頃に帰宅する人物の生活に引っかかりました。

最初に気になったのは、その時間でした。

しかし考えていくうちに、本当に気になっていたのは別のことだと分かりました。

「私は、なぜこれをそこまで異常ではないと思ったのだろう。」

そこです。

仕事によって人生が削られていることは問題です。

しかし、それ以上に怖いのは、その状態を「普通」「当然」と理解するようになり、削られていること自体が見えなくなることかもしれません。

人生には、仕事だけではなく、家族、愛、お金、人間関係、健康があります。

そして仕事も、その中の大切な一つです。

どれをどれだけ大切にするかは、人によって違っていいと思います。

豊かさとは、すべてを均等に持つことではありません。

自分にとって大切なものが、互いを破壊せず共存できることです。

だから水沢節の「節」は、全員に同じ制限を設けるものではありません。

何かを多く選んでもいい。

ただし、それによって他の大切なものが壊れるところには、自分で境界を引く。

それが、自分の人生を守るための節度なのだと思います。

私たちは、生きるために仕事をします。仕事をするために生きるのではありません。

仕事を大切にしながら、それ以外の人生も残す。

そのために、自分なりの「ここまで」を持つ。

あなたの仕事は、あなたの人生のどこまで入ってきてよいでしょうか。


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